2007年 08月 23日
世界は村上春樹をどう読むか
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海外の(といってもアメリカ)新聞のブックレヴューやコラムを見ていると、ホントに村上春樹の人気ぶりは本物だと痛感させられるし、当代一の作家であることは事実として疑う余地が無い。でも実際、私自身はとっくに村上春樹の読者を辞めているので、こればかりは何とも思わないというべきか困惑ぎみというのが正直なところ。今やノーベル文学賞に最も近い存在であるということは真に慶賀すべきことではあるが、さりとて日本文学のパラダイムから村上春樹を位置付けようと試みるのは困難な作業だ。私自身カート・ヴォネガットやブローティガンの読者でありながら村上春樹に否定的だったりするのだけれど、村上春樹的な生き方というのも確かにあり得る選択肢の一つではあると思う。達観・個人主義・趣味のいいサブカルチャー・生活感のない食事風景・世間的にやましいと思われることなんぞの一切を発想することの無い主人公。ロハスさながらにアングロサクソン的な生態に、現実に即アメリカの市民権を得ることが可能な村上春樹をグローヴァライゼーションの文脈で捉え、ハルキ・ムラカミの世界的広がりにグローヴァル化もここまで来たかと感慨を抱いてみる。
例えば中国の若者にとって村上春樹は新しいライフスタイルの教科書として読まれているらしいなどと聞くと最早返す言葉が見つからない。恐らくオリンピック後訪れる中国バブル崩壊後も韓国同様、村上春樹の持つ独特な喪失感を共感の対象として読まれ続けていくのだろうと想像するに吝かでない
例えば私がテロ特措法に反対する理由
ロベスピエールの恐怖政治、レジーム・ド・ラ・テラーがテロの元祖なら現代に於けるテロは随分と様変わりしたもんだ。改めてテロとは何か?という問いに明確に答えを出すことは不可能だが、私の判断基準ではアメリカが主張するテロ、例えば神風特攻隊やハマスは私に言わせたらテロではない。テロ対策と言いつつテロの定義が曖昧では、アメリカにとって都合のいいレトリックに振り回され続けるだろう。そんなアメリカを支えているのが、達観・個人主義・趣味のいいサブカルチャー・生活感のない食事風景・世間的にやましいと思われることなんぞの一切を発想することの無いキリスト原理主義者。だからって村上春樹も一緒だなんて言ってません。しかし、賛成するにせよ反対するにせよ、理想の世の中というモデル設計があって、理想の世の中の実現は仲間になれないものを聖書における原罪さながらに排除して成り立つならば、確実に私は排除されるだろうし、グローバリズムとは所詮キリスト原理主義の会員制クラブみたいなもの、日本が戦後享受した豊かさの嘘臭さをどれくらい意識しつつ享受できるか、恐らく孤児的な村上春樹自信は意識しているが地縁的血縁的ネットワークの残存のなかで生活している大半の読者側は無邪気な市民であり脆弱な基盤を疑う余地が無い。
読もうにもその文体が貧乏臭く読めないと言ったのは浅田彰だが、私の村上春樹に対するスタンスもそれに近い。だから私の場合はあくまで招かれざる客の立場で本書を読んだわけ。よってリチャード・パワーズの講演内容はじめ四方田犬彦を例外としてその殆どが苦痛だった。私からみて今更East meets Westのような発想にはとうに食傷してしまっているし、村上春樹の翻訳を通して各文化のパラダイムを読むという試みも何も今更といった感はいなめない。
私(僕)は貴方からみた私であり、同時に社会のなかの私だった。私は絶えず揺さぶられてきた。個人主義や達観を基調とする村上春樹の私(僕)という存在は軋轢に距離を置きミニマムな世界を構築する。確かに既存の個人であることが社会にコミットしているのだという前提に辟易するのも無理は無いが、四方田のいう文化的無臭性やグローバリゼーションという胡散臭さも同様に帰国子女的ルサンチマンを感じる。
Ⅳ章 四方田犬彦の『村上春樹と映画』より自分の勝手な空想
戦後の青春文学って一等最初に石坂洋次郎って人がいて、その後五木寛之、片岡義男、村上春樹となる。個人的に色分けすると
五木寛之 プロレタリア青春文学 安酒場
片岡義男 植民地的青春文学 ハンバーガーと定食屋
村上春樹 カルバン・新教徒的青春文学 タウン情報誌
石坂洋次郎 戦後レジーム教育改革文学 家庭の円卓
そして石坂洋次郎なんだけど、実は子供時代に読んで、登場人物の初々しい品性に憧れたりした。当時NHKで筒井康隆同様ドラマ化されて楽しみにしていた。もっともそんな事を覚えているのは同世代でも小数派で大抵の人は記憶に無いし、石坂洋次郎という名前も戦争直後に生まれて「青い山脈」を観た人くらいしか記憶に残っていないのだろうと思う。
きっと、安倍晋三氏の理想とする国民像も石坂洋次郎的なんだろう。
あれれ、私と安倍晋三は妙なところで気が合ったみたいです(冗談)。
例えば中国の若者にとって村上春樹は新しいライフスタイルの教科書として読まれているらしいなどと聞くと最早返す言葉が見つからない。恐らくオリンピック後訪れる中国バブル崩壊後も韓国同様、村上春樹の持つ独特な喪失感を共感の対象として読まれ続けていくのだろうと想像するに吝かでない
例えば私がテロ特措法に反対する理由
ロベスピエールの恐怖政治、レジーム・ド・ラ・テラーがテロの元祖なら現代に於けるテロは随分と様変わりしたもんだ。改めてテロとは何か?という問いに明確に答えを出すことは不可能だが、私の判断基準ではアメリカが主張するテロ、例えば神風特攻隊やハマスは私に言わせたらテロではない。テロ対策と言いつつテロの定義が曖昧では、アメリカにとって都合のいいレトリックに振り回され続けるだろう。そんなアメリカを支えているのが、達観・個人主義・趣味のいいサブカルチャー・生活感のない食事風景・世間的にやましいと思われることなんぞの一切を発想することの無いキリスト原理主義者。だからって村上春樹も一緒だなんて言ってません。しかし、賛成するにせよ反対するにせよ、理想の世の中というモデル設計があって、理想の世の中の実現は仲間になれないものを聖書における原罪さながらに排除して成り立つならば、確実に私は排除されるだろうし、グローバリズムとは所詮キリスト原理主義の会員制クラブみたいなもの、日本が戦後享受した豊かさの嘘臭さをどれくらい意識しつつ享受できるか、恐らく孤児的な村上春樹自信は意識しているが地縁的血縁的ネットワークの残存のなかで生活している大半の読者側は無邪気な市民であり脆弱な基盤を疑う余地が無い。
読もうにもその文体が貧乏臭く読めないと言ったのは浅田彰だが、私の村上春樹に対するスタンスもそれに近い。だから私の場合はあくまで招かれざる客の立場で本書を読んだわけ。よってリチャード・パワーズの講演内容はじめ四方田犬彦を例外としてその殆どが苦痛だった。私からみて今更East meets Westのような発想にはとうに食傷してしまっているし、村上春樹の翻訳を通して各文化のパラダイムを読むという試みも何も今更といった感はいなめない。
私(僕)は貴方からみた私であり、同時に社会のなかの私だった。私は絶えず揺さぶられてきた。個人主義や達観を基調とする村上春樹の私(僕)という存在は軋轢に距離を置きミニマムな世界を構築する。確かに既存の個人であることが社会にコミットしているのだという前提に辟易するのも無理は無いが、四方田のいう文化的無臭性やグローバリゼーションという胡散臭さも同様に帰国子女的ルサンチマンを感じる。
Ⅳ章 四方田犬彦の『村上春樹と映画』より自分の勝手な空想
戦後の青春文学って一等最初に石坂洋次郎って人がいて、その後五木寛之、片岡義男、村上春樹となる。個人的に色分けすると
五木寛之 プロレタリア青春文学 安酒場
片岡義男 植民地的青春文学 ハンバーガーと定食屋
村上春樹 カルバン・新教徒的青春文学 タウン情報誌
石坂洋次郎 戦後レジーム教育改革文学 家庭の円卓
そして石坂洋次郎なんだけど、実は子供時代に読んで、登場人物の初々しい品性に憧れたりした。当時NHKで筒井康隆同様ドラマ化されて楽しみにしていた。もっともそんな事を覚えているのは同世代でも小数派で大抵の人は記憶に無いし、石坂洋次郎という名前も戦争直後に生まれて「青い山脈」を観た人くらいしか記憶に残っていないのだろうと思う。
きっと、安倍晋三氏の理想とする国民像も石坂洋次郎的なんだろう。
あれれ、私と安倍晋三は妙なところで気が合ったみたいです(冗談)。
by edyedy4
| 2007-08-23 06:15
| Littérature