2006年 07月 11日
ショルティ自伝 3
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ウィーン・フィルとの仕事は神経をすり減らすものだったらしい。
しかし、両者はレコード史上でも画期的な偉業を成し遂げた。「ニーベルングの指輪」全曲スタジオ録音。しかし、不思議なことにこの録音は、偶然から生まれたものだった。
結局、クナッパーツブッシュはスターだが、面倒が嫌いな巨匠に膨大なスタジオ録音は向かなかった。
指輪について
私はウィーンで一番好きな道は、空港に向かう道路だと口癖のように言った。ウィーンを離れるときはいつもほっとしたものだった
しかし、両者はレコード史上でも画期的な偉業を成し遂げた。「ニーベルングの指輪」全曲スタジオ録音。しかし、不思議なことにこの録音は、偶然から生まれたものだった。
「指輪」についてなんの動きもないため、今後の計画をデッカ社長のモーリツ・ローゼンガルテンと話し合うため、チューリッヒに出かけた。「『ワルキューレ』が成功したことは、うれしいことです」と彼は言った。「そこで、全曲録音を決めました・・・・クナッパーツブッシュと」それを聞いた私はがっかりした。
結局、クナッパーツブッシュはスターだが、面倒が嫌いな巨匠に膨大なスタジオ録音は向かなかった。
録音は1958年にウィーンで行われた。最初の晩、カルショーと私は、ホテルインペリアルのバーで、翌日の予定について話し合っていた。その最中にヴァルター・レッグが姿を現した。(中略)パリ管について
意外なことにカルショーとレッグはそれが初対面だった。私が二人を引き合わせると、レッグが私に向かって訊いた。「ここで何してるんだ、ショルティ」「『ラインの黄金』を録音するんです。明日が第一回目の録音で」 「『ラインの黄金』だって?」 彼はカルショーをじっと見た。「傑作だが五十セットしか売れんぞ」 彼の予言は大いにはずれた。
何度か指揮をしてみて、カラヤンが辞任した理由がわかった。ベルリン・フィルから来た身にはパリ管弦楽団はショックだったにちがいない。同様にシカゴからきた私もショックを受けた。端的に言えばいいオーケストラではなかった。規律を欠き、全体の水準にむらがあった。懸命にがんばってはみたものの、五年契約の三年が過ぎたところで、私は後継者にダニエル・バレンボイムを推薦してパリ管を離れた。ダニエルには苦労するぞと言ったが、彼なら適任に思えた。そしてそのとおりだった。彼は十四年間踏み止まり、しだいに演奏の質を向上させた。のちに私が客演指揮で戻ってきたときは、はるかにいいオーケストラになっていた。
指輪について
昔は良かったなどと言うつもりは無い。一般的に言って、現在モーツァルトのオペラには昔よりいい歌手が居るし、ヴェルディ、プッチーニその他の作曲家の作品でもかつてないほど配役に恵まれている。三世代前にはドミンゴのように柔軟性、音楽性、知性の三拍子そろった歌手などいなかった。そして現在、ベン・ヘップナー、からルネ・ペープまで、アンジェラ・ゲオルギューからルネ・フレミングまで、将来を嘱望されている若手歌手たちが続々と生まれている。だが「指輪」に関しては、私は意見を変えられない。いまではブリュンヒルデを歌えるドラマチック・ソプラノも、ジークフリートを歌えるワーグナー・テノールも、ウォータンを役柄にふさわしく歌えるバス・バリトンもいない。柴田南雄氏はショルティのマーラーを、カラヤンと共に商業主義として斥けているが、ショルティの劇的でダイナミックな解釈とシカゴ交響楽団の高い演奏能力に室内楽並みに合わさったチューニング、それにデッカの録音技術が結晶して出来上がった成果であって、カラヤンと距離を置き、レッグの誘いに乗らずデッカに生涯を捧げたショルティは商業主義とは程遠い感じがします。以前、タイトルは忘れましたが、ロバート・デ・ニーロ主演の映画の最後に「マタイ」が流れたのですが、ショルティの指揮だと即解りました。(ほぼ感に拠りますが)正直ショルティの指揮は好きではありませんが、ヴェルレクや大地の歌、それにショスタコなど、ショルティで聴いてみたいなと思ったりします。
by edyedy4
| 2006-07-11 00:57
| Littérature