2006年 07月 08日
『ラディカル・オーラル・ヒストリー・オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践―』 保苅実 (2)
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多様な解釈をもたらす詩歌のもつ力や情熱、そのあふれんばかりの官能的な想像力を考えてみよう、心を呼び覚ますような、美しく神秘的な想像力あふれる、たくさんの表現を
デボラ・B・ローズ
それは、日本学術振興会特別研究員という発話位置、例えば雇われ店主の裁量とすれば、仕方ないことなのだが、インタビューして何か聞き出そうなどとせず、生活を共にし、歴史実践を試みるという、実に気の長い、良い意味でアマチュアっぽさが発揮されていることによって、先入観は凍解している、彼等の歴史を荒唐無稽だとかメタファーがとかといった解釈は、近代社会の偏見にすぎないし、まぁ、だとしたら興味ないのですが。複雑なのは、彼等の話す内容。例えば、「大地が私に語りかけた・・・・」といった内容なら自然やエコロジーといった楽園的要素を喚起し、神話的イメージと結びつくのだけれど、以前書いたように、SFチックな点。ケネディなどといった実在の固有名詞が登場するのが驚き!
もちろん、実際にはケネディと長老が会ったなどといった事実は無いわけです。かといって、ケネディは○○のメタファーだなどといった歴史学者のような一元化した解釈は却下しているところが痛快なのです。
ここに書かれている、歴史実践とは、テレビの再放送を懐かしく見たり。昔の雑誌を再読し再発見したり。ラフマニノフの自作自演やフーベルマンの演奏する江戸前の啖呵のような演奏に夢中になったりするような、私たちの日常と同じレベルで成されている。彼は人類学者ではないが、人類学者のようなフィールドワークを実践した。しかし、記憶論や神話論を否定している。ディシプリンから逸脱することによって、逆にアボリジニの歴史に肉薄する。過去にもそんな人がいた。例えば冒険家植村直巳氏など。
私なんぞ、ついついケネディは現代のプロテスタント、キャプテンクック、ジャキー・バンダマラはイギリス植民地主義者のメタファーなどと想定してしまう。
アボリジニ文化にとって固有名とは、差異の記号に過ぎない。過剰に意味を生成することなく、ヴァージンな記号を共有化するだけだ。彼等の声を受信するにはピュアで謙虚な耳で成されなければならない、と同時にバランスのとれた深い教養の裏打ちが必要だ。しかし、どうしてこんなに突き動かされるのだろうか。この書物はPSPで遊ぶ子供みたいに、知識と並行する楽しみに満ちている。
意識が持って2~3週間、余命2ヶ月という環境でよく書いたと思う。オーラルヒストリーを深く聴く、コミュニケーションの重要さを繰り返し、最後に「書くこと」について引用している。
オーラルヒストリーは持続するだろう、荒廃や損失は終焉を意味しない。アボリジニの人々によれば、たとえ動物がいなくなっても、動物たちは必ず何処かで「精霊」となって生きている。生命の喪失という複雑な事態は、けして絶対的状態では無いということ。穂刈氏は花弁を落とし、「精霊」としてドリーミングの世界へ旅立った。花弁はどのように爆発するか?
デボラ・B・ローズ
発話位置によって、歴史が、真実性が多元化される、異化される、そこまでは問題ありません。問題なのは、なぜ、学術研究者という発話位置に立つと、人間以外の歴史エージェントを立ち上げることが突然許されなくなるのか
穂刈実
それは、日本学術振興会特別研究員という発話位置、例えば雇われ店主の裁量とすれば、仕方ないことなのだが、インタビューして何か聞き出そうなどとせず、生活を共にし、歴史実践を試みるという、実に気の長い、良い意味でアマチュアっぽさが発揮されていることによって、先入観は凍解している、彼等の歴史を荒唐無稽だとかメタファーがとかといった解釈は、近代社会の偏見にすぎないし、まぁ、だとしたら興味ないのですが。複雑なのは、彼等の話す内容。例えば、「大地が私に語りかけた・・・・」といった内容なら自然やエコロジーといった楽園的要素を喚起し、神話的イメージと結びつくのだけれど、以前書いたように、SFチックな点。ケネディなどといった実在の固有名詞が登場するのが驚き!
グリンジカントリーに来たアメリカのボス、ケネディは「おまえたちは、何故白人に酷い目に遭わされているんだ?」するとアボリジニの長老は、実はこういうことがあって英国からやってきたあいつ等から酷いめにあわされている、と言うとケネディは、イギリスに対して戦争をして、お前たちを助けるよと言う。
もちろん、実際にはケネディと長老が会ったなどといった事実は無いわけです。かといって、ケネディは○○のメタファーだなどといった歴史学者のような一元化した解釈は却下しているところが痛快なのです。
ここに書かれている、歴史実践とは、テレビの再放送を懐かしく見たり。昔の雑誌を再読し再発見したり。ラフマニノフの自作自演やフーベルマンの演奏する江戸前の啖呵のような演奏に夢中になったりするような、私たちの日常と同じレベルで成されている。彼は人類学者ではないが、人類学者のようなフィールドワークを実践した。しかし、記憶論や神話論を否定している。ディシプリンから逸脱することによって、逆にアボリジニの歴史に肉薄する。過去にもそんな人がいた。例えば冒険家植村直巳氏など。
私なんぞ、ついついケネディは現代のプロテスタント、キャプテンクック、ジャキー・バンダマラはイギリス植民地主義者のメタファーなどと想定してしまう。
表現とは、思考なり情念なりの衣だとか、その翻訳だとか考えがちですが、実は思考というものが、その言語表現を見出す以前に、一種のテクストとして存在しているのではない。テクストを読むという好意は、読み手が対象からの意味を受け取ると同時に、対象に意味を付与する相互的行為にほかならない。こんな手垢に染まって物事を考えていたし、これからもそうだろうけど、この本を読むと、何故かとても申し訳なく思ってしまう。
丸山圭三郎
アボリジニ文化にとって固有名とは、差異の記号に過ぎない。過剰に意味を生成することなく、ヴァージンな記号を共有化するだけだ。彼等の声を受信するにはピュアで謙虚な耳で成されなければならない、と同時にバランスのとれた深い教養の裏打ちが必要だ。しかし、どうしてこんなに突き動かされるのだろうか。この書物はPSPで遊ぶ子供みたいに、知識と並行する楽しみに満ちている。
意識が持って2~3週間、余命2ヶ月という環境でよく書いたと思う。オーラルヒストリーを深く聴く、コミュニケーションの重要さを繰り返し、最後に「書くこと」について引用している。
「・・・・書くということは、深い井戸に石を落として水しぶきが聞こえるのを待っているかのようだ、と言ったことがある。だが、友人は、それは違うと言う。彼によれば、書くということは、グランドキャニオンにバラの花弁を落とし、爆発を待っているようなものだ、と」 グレグ・デニング
オーラルヒストリーは持続するだろう、荒廃や損失は終焉を意味しない。アボリジニの人々によれば、たとえ動物がいなくなっても、動物たちは必ず何処かで「精霊」となって生きている。生命の喪失という複雑な事態は、けして絶対的状態では無いということ。穂刈氏は花弁を落とし、「精霊」としてドリーミングの世界へ旅立った。花弁はどのように爆発するか?
「生ける世界」という概念は、コミュニケーションに依存しています。皆が聞き、語らなければなりません。皆が注意深くあり、相手を尊重する必要があります。
デボラ・B・ローズ
by edyedy4
| 2006-07-08 23:46
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