2008年 05月 30日
エクリチュールの零度 ロラン・バルト
|
バルトは理論家である以上にブルジョア的残存に彩られた記述者であり、後年ますますその色彩が強くなった。17世紀パリのように、少数の識字階級で言語が交換される。読者が同時に書き手であるような文学的なユートピアから始まって、シャトーブリアンに代表されるエクリチュールを気品のある名文とする19世紀的価値観に準拠した考え方、ブルジョワ的エクリチュールの構造に避けられず収斂されてしまうことを、また言語の彼方を絶えず意識していた。
言語の彼方とは、<歴史>であると同時に、そこにおいて抱く決意である。
&
ブルジョワジーのイデオロギー的な単一性が単一的なエクリチュールを生み出したのであって、意識が引き裂かれていなかったために、形式が引き剥がされることもありえなかった……
その反対に(1850年ごろ)著作家の第一の所作は、自分の過去のエクリチュールを引き受けるなり、それとも拒否するなりすることによって、自分の形式のアンガージュマンを選択することであった
前者はサルトルの言う「閉鎖回路」と軌を一つにしている。エクリチュールとは都合の良い幸福なツール、自己陶酔の機能にすぎなかった。労働価値の現出はフローベールによって、文学を客体へと構成する。
形式が、陶器や宝石のように、<製作>の事項になった
最後に、マラルメが、あらゆる客体化の究極的行為たる殺戮によって、このような<文学=客体>の構成に絶頂を極めさせた
この著作で際立っている一つは「エクリチュールとは何か」で、エクリチュールとスチル(style文体)を明確に区分けしたことだろう。
つまり、言語対は<文学>の手前にあるのだ。文体は、ほぼ彼方にある。
文体という名のもとに自給自足的な言語が形成されるのである。それが潜り込んでいくところは、個人的で秘められた神話の中、語りの下層自然の中にほかならない…
その洗練がどれほどのものであろうとも、文体には、つねに何か生なものがある。用途の無い形式であり、意図の所産ではなく激発力の所産であり、思惟の垂直で孤立した側面のようなものである。それの準拠となるものは、生物学あるいは過去の水準にあるものであって、歴史の水準にはない。
言語対や文体は盲目的な力であるが、エクリチュールは歴史的な連帯性の行為なのだ。言語対や文体は客体であるが、エクリチュールは機能なのだ。
エクリチュールというものは、両義的な現実である。一方に於いて社会との対立から生まれ、他方に於いて、この社会的な目的性から、著作家を、彼の創造の道具的な源泉へと送り返すのだ。
「スチル」=個人的なもの
「エクリチュール」=社会が個人に介入し、個人が選択するもの
そして、ブルジョワ的エクリチュールをプラスに位置するものと規定し、その対立物がゼロ度、アルベール・カミュ(ここでは『異邦人』)が挙げられている。
それは無感動なエクリチュールではなく、無垢なエクリチュールなのだ。生きた言語や文学的な言語から隔たって、一種の基底的な言語対に依拠して「文学」を乗り越えることが問題なのだと綴る。
言語の彼方とは、<歴史>であると同時に、そこにおいて抱く決意である。
&
ブルジョワジーのイデオロギー的な単一性が単一的なエクリチュールを生み出したのであって、意識が引き裂かれていなかったために、形式が引き剥がされることもありえなかった……
その反対に(1850年ごろ)著作家の第一の所作は、自分の過去のエクリチュールを引き受けるなり、それとも拒否するなりすることによって、自分の形式のアンガージュマンを選択することであった
前者はサルトルの言う「閉鎖回路」と軌を一つにしている。エクリチュールとは都合の良い幸福なツール、自己陶酔の機能にすぎなかった。労働価値の現出はフローベールによって、文学を客体へと構成する。
形式が、陶器や宝石のように、<製作>の事項になった
最後に、マラルメが、あらゆる客体化の究極的行為たる殺戮によって、このような<文学=客体>の構成に絶頂を極めさせた
この著作で際立っている一つは「エクリチュールとは何か」で、エクリチュールとスチル(style文体)を明確に区分けしたことだろう。
つまり、言語対は<文学>の手前にあるのだ。文体は、ほぼ彼方にある。
文体という名のもとに自給自足的な言語が形成されるのである。それが潜り込んでいくところは、個人的で秘められた神話の中、語りの下層自然の中にほかならない…
その洗練がどれほどのものであろうとも、文体には、つねに何か生なものがある。用途の無い形式であり、意図の所産ではなく激発力の所産であり、思惟の垂直で孤立した側面のようなものである。それの準拠となるものは、生物学あるいは過去の水準にあるものであって、歴史の水準にはない。
言語対や文体は盲目的な力であるが、エクリチュールは歴史的な連帯性の行為なのだ。言語対や文体は客体であるが、エクリチュールは機能なのだ。
エクリチュールというものは、両義的な現実である。一方に於いて社会との対立から生まれ、他方に於いて、この社会的な目的性から、著作家を、彼の創造の道具的な源泉へと送り返すのだ。
「スチル」=個人的なもの
「エクリチュール」=社会が個人に介入し、個人が選択するもの
そして、ブルジョワ的エクリチュールをプラスに位置するものと規定し、その対立物がゼロ度、アルベール・カミュ(ここでは『異邦人』)が挙げられている。
それは無感動なエクリチュールではなく、無垢なエクリチュールなのだ。生きた言語や文学的な言語から隔たって、一種の基底的な言語対に依拠して「文学」を乗り越えることが問題なのだと綴る。
by edyedy4
| 2008-05-30 00:03
| Littérature