2006年 07月 10日
ショルティ自伝
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あの時代のユダヤ人が辿った人生。ゲオルク・ショルティも例外ではない。レイシズムに関していえば、サッカー好きの彼は、イングランドのニューキャッスル・ユナイテッド対ハンガリー選抜の試合を観て、ルーマニアから移住してハンガリー国籍を取った選手のラフプレーに「まったく、ルーマニア人ってのは、最低だな!」と、つい口走ってしまったことを告白している。また、恥ずかしいエピソードとして、若い頃、人から「あなたは、ユダヤ人に見えませんね」と言われて、嬉しくなったものだ。・・と。 正直な人です。
ロシアバレエ団のツアーに伴奏指揮者として同行すれば、少なくとも危機的状況から回避できたのだが。バレエの伴奏はテンポが制約されることに我慢ならず・・・・
亡命先のスイス・チューリッヒでは身の安全が保障されたが、なにより孤独で、所詮邪魔者だったことにいまだに、腸が煮えくり返る思いらしい。一方で、初めてスキーなどして楽しんだエピソードが描かれているのだが、この人の指揮同様な豪快さ。
(賢明な友人とは、ヘディ・エークスリ。後のショルティ夫人である。)
その後まもなく、私とは5歳しか違わないヤーノシュ・フェレンチクが、徐々にフライシャーとベルクに取ってかわるようになった。戦後フェレンチクはハンガリーを代表する指揮者に成長し、国立歌劇場とブタペスト管弦楽団の両方を指揮するようになった。私たちはドイツとイギリスで何度か出会った。そして長く祖国を離れた私が、1978年に始めてブタペストに戻って指揮をしたときにも会った。彼の寛大で温かな人柄はいつも変わらなかった。政治的な締め付けが厳しい困難な時代にも、ハンガリーで高い芸術水準を保ち続けた彼を私は尊重する。それはけっして生やさしいことではなかったはずだ。
私はユダヤ人なので、どれほどコレペティトゥーアとして経験を積んでもブタペスト歌劇場で指揮者になれないのは最初からわかっていた。
ロシアバレエ団のツアーに伴奏指揮者として同行すれば、少なくとも危機的状況から回避できたのだが。バレエの伴奏はテンポが制約されることに我慢ならず・・・・
最終公演のとき、私はシューマンのテンポ指示どおりに「謝肉祭」を指揮した。これぞシューマンと私からの、待ちに待った復讐のときだった。あわれなダンサーたちは、早すぎるテンポに四苦八苦した。みんなかんかんだぞ、とカーテンコールのとき舞台監督が耳打ちした。「殺される前に、消えたほうがいいな」
亡命先のスイス・チューリッヒでは身の安全が保障されたが、なにより孤独で、所詮邪魔者だったことにいまだに、腸が煮えくり返る思いらしい。一方で、初めてスキーなどして楽しんだエピソードが描かれているのだが、この人の指揮同様な豪快さ。
ジュネーヴ・コンクールの結果は、意外な副産物も産んだ。1941年の審査員だったニキタ・マガロフが、1945年にジュネーヴ湖畔クラランスの自宅へ私を招いて、舅のヨーゼフ・シゲティに引き合わせてくれたのだ。(中略)彼は私のピアノがとても気に入り、伴奏者が必要なので一緒にアメリカにこないかと誘った。私は嬉しかったが、ある賢明な友人が指揮者としてのキャリアが妨げられるから、断ったほうがいいと忠告してくれた。
(賢明な友人とは、ヘディ・エークスリ。後のショルティ夫人である。)
by edyedy4
| 2006-07-10 17:05
| Littérature